象は鼻が長い?

「象は鼻が長い」には何故主語が2つあるのか? 「象の鼻は長い」とどう違うのか? amteurlinguist が考える日本語の構文

2. 「好き」と「好く」

かつて「スペイン語のあいうえお」という連載?を書いた時、そこでは、スペイン語の「音と綴りの関係」を自分なりに説明してみました。
これはスペイン語のアルファベットとそれを組み合わせてできる音節、いわばスペイン語の要素の中で一番小さな単位の話。
でもそれが、スペイン語のピラミッドの一段目の石を繋ぐセメントのような役割をするという事で、「スペイン語のあいうえお」では、普通のテキストや参考書に載っている割合に比べると、かなりじ~っくりとやりました。

さて、そのセメントを使って実際に石を積んで行くに当たり、どういう石を、どんな順に積んで行くのか? というと、

先ず「単語」という石がある?
そして単語が集まった「句」という石がある?
次は「節」、そして「文」、それも「単文」からより複雑な文へと、単位は徐々に大きくなって行き…

それらの関係をまとめたルールが文法って事ですよね?
その文法というものについて考えるヒントになるかもしれないと思う事を幾つか書いてみます。

先ずは、文の部品という事について。
「私は○○が好き」という日本語の文章を英語に直すと、普通「I like ○○」…ですが、ここで「好き」という言葉の品詞は何か?という事に注目。

「I like ○○」なんだから、動詞じゃない? って、一瞬思いませんでしたか?

英語の "to like" は確かに動詞(「好く」)ですが、実は日本語の「好き」という言葉は、「好きだ」という形容動詞です。
ほら、「だろ、だっ、で、に、だ、な、なら」…とかって、やりませんでしたか?
(一方「好く」は、好かない、好きます、好く、好く時、好けば、好こう…)

この「形容動詞」という言い方がクセモノで、何となく動詞みたいに聞こえるけれど、これが機能的には「形容詞」だという事は、ある意味周知の事実なのです。

例えば「外国人に対する日本語教育」の現場では、普通の(?)形容詞を「い形容詞」、形容動詞の事を「な形容詞」などと言ったりしてた(…少なくとも私が日本語教師の勉強をしてた頃は…)。

で、「機能的に形容詞」というのはどういう事かというと、例えば「名詞を修飾することができる」という事で、つまり形容詞の機能のひとつは、「名詞を修飾する」事なのです。

「好きな色」とか「好きな人」という時の「好きな」は「色」や「人」という名詞を修飾してるでしょ?

上の「私は○○が好き」という言い方には、もうひとつ「は」と「が」の問題が隠れており、これも実は「好き」が動詞ではなくて形容詞だという事に関係があると思うのですが、でもその話は、いつか≪象は鼻が長い≫の本論?でトライする事にして、今日の本題は、「好き」が実は形容詞なのに、英語では "like" という動詞になるという事。

同じ概念を表す言葉が、ある言語では「形容詞」でも、他の言語では「動詞」になる。…という事は、厳密に言うと「同じ概念」ではないのかも知れない…語学の勉強では、こういう事が結構ある。

じゃあスペイン語で「私は○○が好き」っていうのは、どう言うか?

"Me gusta ○○" と言う。
(例えば「私はスペインが好きだ。」は "Me gusta España."となる。)

"Me" は「私」という代名詞の目的格(この場合は間接目的)。
"gusta" は "gustar" という動詞の3人称単数形現在…

…という事は、「好き」っていうのは、スペイン語でもやっぱり動詞なんだ…って一瞬思いませんでした?

でもちょっと待って。"gustar" は確かに動詞。そういう意味では英語と同じ…だけど主語は?

スペイン語の "Me gusta ○○" という文の主語は、「私」じゃなくて「○○」!
(上の例文の主語は「スペイン」- "España" という単語。)
スペイン語では「好きなもの」が主語になって、しかも、この場合文の最後に来ているのです。

つまり "gustar" の意味は、英語の "to like" とも日本語の「好きだ」とも違っていて、「○○が私の気に入る」というような言い方をしてるのですが、でもそれじゃあ日本語にならないので、普通は「私は○○が好き」と意訳(?)する訳です。

でもここで、もう一度ちょっと待って。日本語の「私は○○が好き」という文は、「私」を省略して「○○が好き」と言ってもおかしくない。「○○は好きだけれど、××は嫌い」という風に「が」を「は」に置き換える事もできる。…という事は、ある意味日本語でも、「○○」は主語な訳です。

…けれど英語で "I like ○○" と言うと、目的語になってしまう。

言語って、それを使う人(民族)の根本的な考え方のようなものを、無意識の裡に現しているような気がしませんか?

ちなみに上の「い形容詞」と「な形容詞」、そもそも形容詞が活用しちゃうところが日本語のひとつの特色かと思うのですが、その形容詞の活用に2種類あるという事にも、実は理由がある。それを無意識の裡に利用しちゃったのが、「ナウい」という、かなり前に流行った流行語です。

最近では「違くない?」などという言い方も、これとちょっと似たところがあります。

ナウい」がかつて何故流行語になったのか? そして「違くない?」が何故オモシロイのか、興味のある人は考えてみて下さい。